gzmlhzmkwq7w3の日記

 自分の趣味とか雑感その他を、気が向いた時に書き連ねる予定です。【2023/12/20追記:昨今の問題について筆者のスタンスを書きましたので、ブログトップに表示しています。】

映画「ひらいて」を鑑賞したあと原作小説を読んだので今のうちに感想を書きたい

 約2年半ぶりに映画館に行きました。
 今回鑑賞した「ひらいて」(首藤凜監督)のラストシーンをどう受け止めたらいいか分からなくなった勢いで映画館からの帰り道に原作小説(綿矢りさ著)を購入し、いま読み終えたところです。
 未だに思考がまとまらないままですが、直接のネタバレは避けながら感想を書き留めていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 直情的な愛情をここまでまっすぐにかつ屈折して描ききったという意味で、映画「ひらいて」で知らない世界を体感できました。映画館に観に行ってよかったです。

 この作品を観ている間、この文章の<自己愛の障害><「ほれこみ」と「自己愛転移」>の項が頭の中を巡っていました。
http://psychodoc.eek.jp/abare/oshikake.html
 主人公・愛がずっと思いを寄せてきたクラスメイト・たとえに何故あれほどまで執着したのかは理解できませんでした。たとえの恋人・美雪に近づくのはまあいいとして、美雪と関係を結んでまで奪おうとするなんておかしいとしか感じられなかった。だから、「どんな愛情もある程度の自己愛を含んでいる」「他者への自己愛的リビドーの投入」という前述の文章に出てくる表現を、愛が抱えていた感情に当てはめようとしたんだと思います。

 人気にも成績にも友人にも不自由しない愛は「自分だけがたとえの魅力を知っている」と考えていました。それだけなら良かっただろうに、たとえがこっそり手紙を読んでいるのを目撃したことで「たとえを見つけた自分自身」を内包する愛情まで脅かされたように感じたのかなと考えたんです。愛の行動があまりに無茶苦茶なのは、まわりまわって自分を守るためだとしたらまあ納得できるかな……と。愛と美雪がたとえの家に行って彼の父親と話す場面が終盤にありますが、たとえの父親の言動の端々から感じられるのは自分自身以外との関係をきちんと持てない「支配」なわけで、愛とは違う形のいびつな愛情を見せつけられたと思いました。

 愛があんなふうになったのはいくらなんでも可哀そうだと思わなくもなかったのですが、他人の恋路を引っ掻き回しておいて自分は無傷な恋愛なんてあり得ないと思い、今は納得しています。それに、いかにも気弱そうな美雪にはその時々に自分の身に起きていることを受け止め消化したうえで表出できる強さがあったけど、気が強いと形容されることのあった愛にはそんな強さはなかった、あるいはそんなこともできないほど強烈な衝動に突き動かされていたのだなと思います。ラストシーンの台詞は、愛が現在の自己を受け止めたうえで他者への愛情を純粋に表出できるようになったという意味合いがあるのかな、と考えています。

 

 正確には、原作小説を読むまではそう考えていました。

 

 原作小説は文庫にして178ページと比較的短いですが、愛が語り部となって進むため心理描写が豊富です。映画のなかのモノローグで綴るにはあまりに膨大な愛の心の中の動きをどのように描くかが腕の見せ所で、首藤監督はエピソードの入れ替えや変更を大胆に交えながら補完を図っていたように感じました。

 小説の書き出しにある体育祭のエピソードをばっさりカット、映画の冒頭はラストシーンに通じるよう構成し次の場面で小説の中盤のエピソードを挿入。細かいところでいうと、愛とたとえの階段での会話のきっかけや美雪と関係を結ぶ直前の場面を変更することで、策略家と無鉄砲という愛の相反する側面をアンバランスに強調していたと思います。文化祭の出し物をあえて変更したのは、映像の美しさやフックになるものとして原作小説に登場する愛の募る思いを象徴するようなアイテムを選んだためかなと感じました。
 それゆえに、ラストシーンにあたる場面が想像と違うところに出現したことと、台詞の原型がそのまま存在していたことに驚きました。これはひとえに観客である筆者の感性によるものであって上手く表現できないののですが、小説の中で濃密に語られる愛の心理描写から至ったのと、映画の中の愛から感じる心理描写から至ったのとでは、ラストシーンの台詞の解釈がちょっとずれるんですよ……。映画を観た時は、夜の学校に呼び出されたたとえの台詞に引っ張られ過ぎたのかもしれません。

 結局、また分からなくなりました。

 

 パンフレットも読んだうえでいろいろ語りたいことが浮かんでは書ききれないなかどうしても触れておきたいと思うのが、愛を演じる山田杏奈さんの白くてもちっと丸っこいお顔と、美雪を演じる芋生悠さんの浅黒くてスッと細いお顔の組み合わせがめちゃくちゃ好きということですね。恋愛が絡む関係性の2人の作画の系統が同じなのは貴重でありがたいんですけど、作画が全く違う2人というのもまた良いんです。あと、結構肌色の大きな場面があってこれ本当にPG12で大丈夫かな、と思ったところもありました。
 たとえを演じる作間龍斗くんは応援しているアイドルユニット(HiHi Jets/ジャニーズJr.)のメンバーで、本格的な映画初出演作にしてかなりの大役を務めることになった彼を見届けたいという気持ちがありました。映画の中では、首藤監督がこの作品の成否を彼女の眼力に賭けたことがよく分かるほど視線や語気で愛の内面を自然に表現した山田さんと、大人しさと幼さの両面を持ちつつ一本通った芯がある美雪を優しく表現した芋生さんに、感情のアウトプットが冷静なぶん愛に見せる姿との差異が際立つたとえを堅実に表現した作間くんという3人の取り合わせがうまく効いていたと思います。作間くんは後ろ姿からも見える高い鼻筋が綺麗で学生服を着ていても神秘性の高い仕上がりでしたし、自宅の場面で出てくる私服のたとえも背筋が寒くなるくらい翳があって美しかったです。

 パンフレットを読んでいて一番驚いたのが、首藤監督が早稲田大学映画研究会で制作した映画のタイトルでした。出来すぎた偶然。これは映画を読んでから知った方が衝撃度が高い気がします。

 あとこれは居住地域がバレそうな私事ですが、鑑賞したスクリーンの床が黒地に赤系の桜の花を散りばめたようなデザインで、退場時に目が行った瞬間ゾワッとしました。劇中のあれは桜の花そのものじゃないのですが、明らかにモチーフだったので。

 

 

 実を言うと、この映画を観に行くと決めた理由は応援している芸能人が出演しているからというだけではありません。

 昔から空想が好きだった筆者は、子供の頃から稚拙な物語のアイデアを思い浮かべては設定を考えたり時々文章にしたりといったことをしていました。
 今も覚えているアイデアの1つが、「好きな人の一生の記憶に残るためにその人の目の前で死を遂げる人」というあまりに奇怪なもの。何故こんなことを思いついたのだろうと未だに思うのですが、確かこの頃は好きな人こそいるけれどその人生に自分は必要ないしわざわざ介入したくないという精神で生きていて、「何故みんな付き合ったり結婚したがったりするのだろう」って考えていた時期だった気がします。
「ひらいて」という作品で描かれる「好きな人の好きな人を奪えばいい」というヒリヒリとした苛烈な発想は正直今でも縁遠く、そうした感情を映画という形で疑似体験することで、何故人はそうまでして人を愛するのかという疑問に答えが出るんじゃないかと考えました。

 しかし映画を観終わってからも答えはまだ出ていません。きっとそれが見つかるまで、筆者の中にいるその人は脱いだ靴1足を右手に持ってぶらぶらさせながら屋上に座っている気がします。

 

 

 読んでいただき、ありがとうございました。